相模原事件「植松被告の論理」を、私たちは完全否定できるか 1/23(木)
引用 現代ビジネス 20200123
「皆さまに深くおわびします」
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〈相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で平成28年、入所者19人が刺殺され、職員を含む26人が重軽傷を負った事件で、殺人罪などに問われた元職員、植松聖(さとし)被告(29)の裁判員裁判の初公判が8日、横浜地裁(青沼潔裁判長)で開かれた。植松被告は起訴内容について「(間違い)ありません」と述べた。弁護側は、事件当時、精神障害があったと無罪を主張した。その後、植松被告が暴れ、裁判は休廷になった〉(産経新聞『【相模原45人殺傷初公判】植松被告、起訴内容認めるも暴れ休廷 小声で「深くおわびいたします」』2019年1月8日)
年明けから、相模原45人殺傷事件の裁判が進んでいる。初公判では、植松被告は起訴事実を認めながらも、手を口に突っ込んで暴れるなどして退廷させられた。
暴れて退廷させられる直前、被告は「皆さまに深くおわびします」と謝罪を述べたという。しかし、果たしてその「皆さま」とは、いったいだれを念頭において述べられたのだろうか。
それを知る手掛かりがある。植松被告が「謝罪」するのはこれがはじめてではない。
2017年には、神奈川新聞の記者が植松被告に接見した際、被告は「このたびは私の考えと判断で、遺族の皆さまを悲しみと怒りで傷つけてしまったことを、心から深くおわび申し上げます」と述べた*1
ほか、朝日新聞の仲介で遺族と面会し、その場で謝罪もしている。*2
これらは遺族、つまり健常者に向けられた謝罪の弁であり、自らが殺めた人々に対するものではない。あくまで健常者の心を傷つけたことへの謝罪なのである。「障碍者はいなくなるべきだ」とする植松被告自身の思想は、いまもなお一貫していると考えられる。
私たちは、植松聖という男の凶行を「私たちとはまったく相容れない、異質な者が狂気に駆り立てられて起こした事件である」と捉えるべきなのだろうか。
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れいわ・木村参院議員の指摘
引用
職員の言うことを聞かなければ、常にお仕置きが待っていました。
施設では、私に与えられた空間はベッド一つだけ。決められた時間に、食事、トイレ、入浴をし、外出することも許されず、好きなものも食べられず、会いたい人に会えない、そんな自由のない権利が奪われている生活が障がい者にとってあたりまえの現実の中で、施設生活が長ければ長いほど、絶望に打ちひしがれ、心が死んでしまうほど劣悪な環境でした。
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れいわ・木村参院議員の指摘
自身も脳性麻痺による重度身体障碍者である、れいわ新選組の木村英子参院議員は、植松被告の初公判を受けて、ブログで文書を発表している。できれば全文を読んでいただきたいが、一部を抜粋して引用する。
〈このような残虐な事件がいつか起こると私は思っていました。なぜなら、私の家族は障がいをもった私をどうやって育てたらいいかわからず、施設にあずけ、幼い私は社会とは切り離された世界の中で虐待が横行する日常を余儀なくされていたからです。(中略)
そんな環境で、職員は少ない人数で何人もの障がい者の介助をベルトコンベアーのように時間内にこなし、過重労働を強いられます。そのような環境の中で、障がい者は、絶望し、希望を失い、顔つきも変わっていく。その障がい者を介助をしている職員自体も希望を失い、人間性を失っていき、目の前にいる障がい者を、人として見なくなり、虐待の連鎖を繰り返してしまう構造になっていきます。(中略)
このような環境では、何もできないで人間として生きている価値があるんだろうかと思ってしまう植松被告のような職員が出てきてもおかしくないと思います〉(参議院議員木村英子オフィシャルサイト『相模原事件初公判にあたり』2020年1月8日)
乏しいマンパワーで何人もの障碍者を介助しなければならない現場では、介護する側もされる側も人間性を失っていく、と木村議員は指摘する。
植松被告がやまゆり園で働き始めた当初は「明るく朗らかで、丁寧な好青年」として見られていたことが証言で明らかになっている。しかし被告も障碍者施設で働いているうちに変わっていき、事件の引き金となるような優生的思想を抱くようになっていったのかもしれない。
植松が例外なのではない──そう木村議員が当事者として語るように、障碍者の介護の現場を取り巻く環境的要因を考慮せず、「異常者がやったことだ」と事件をまったく切断処理してしまってもよいとは思えない。
しかしながら、その一方で、障碍者福祉の現場がどのようになっているのかを直接知る人は少ない。多くの「健常者」にとって、想像のおよばない世界であるように思われるし、あるいは実際に無縁な実情がある。
植松の主張は、社会と地続きである
植松被告が、自らの思想の「根拠」として再三述べていたのが、「社会的リソースの余裕のなさ」であった。*3
日本の景気が後退し、財政が悪化するなかで、これ以上「無駄飯食い」のための社会保障費を捻出する余裕はない――というものだ。 世間の人びとは、植松被告の差別的、選民的な思想に対して異議を申し立てた。健常者であろうと、障碍者であろうと、ひとりの人間として人権があり、平等であると。意思疎通ができなければ人間ではないとか、生産性がなければ人間ではないなどといった主張に対して、真っ向から反対の声を挙げたのだ。
だが社会は年々、そのような「障碍者差別」に反対する言葉とは裏腹に、「能力で劣る健常者」に対しても冷酷な視線を注ぐようになってはいないだろうか。
たとえば、なにか具体的な病気や障碍をもっているわけではなくとも、ただ要領が悪かったり、仕事ができなかったり、コミュニケーション能力が低かったりする人たちを、「生産性が低い」「努力が足りない」などと言って遠ざけ、冷遇する現実がある。しかしそれを、社会は人権侵害だとは考えない。「機会の平等」や「自由競争の結果」であるとみなされる。
社会によりどころをなくしてしまった人を、最終的には家庭に引き取らせて「なかったことにする」ような動きに対してあまり異議が出ないのも、いまや皆がうっすらと「この社会は余裕がないのだから(社会性、生産性がない人まで、世間が面倒をみて包摂することはできない)」という前提を暗黙裡に共有しているからでもあるだろう。*4
私たちは、大なり小なり、「私たちと同質的にふるまえない者」を排除することによって、この「生産的で快適な社会」を築いてきた。植松の思想をどれほど強く否定したとしても、しかし私たちの社会の根本には、「人間を、能力の高低や他者にもたらす便益の大小で選別するのは仕方がない」という考え方がインストールされている。植松の言説は、私たちの社会と断絶するものではなく地続きであり、その極北、最果てに待ち受けているものだ。
「植松思想」に打ち克つために
〈家の近所に障害者のグループホームができる──。それを知った住民らが反発し、建設をめぐって住民と事業者が対立する「施設コンフリクト」が各地で起きている。どうして住民は反対するのか。乗り越えられるのか。(中略)
GHの建設を計画した運営会社「セレリアンス」(東京都新宿区)は、住民からの希望で説明会を何度も開いた。だが、村松良記・事業推進部長は「聞くに堪えない言葉ばかりで、理解を得るのは無理だと思った」と振り返る。粛々と建設を進める予定だという。「犯罪者を住ませるのか」。住民が説明会で放った一言が頭に残る〉(朝日新聞デジタル『「土地汚れる」障害者グループホーム、理解なき反対運動』2020年1月9日)
耳を疑うような差別的言説を言い放つ人間が、必ずしも悪意の塊であるとはかぎらない。そこには当人なりの危機意識、むしろ「善意」があることさえ珍しくない。
障碍者施設の建設に反対する住人は、純然たる憎悪から排除を申し立てているわけではなく、自分の身内や近隣住民の生活を守りたいという「やさしさ」から、「私たちと同質的にふるまえない者」を排除しようとすることもある。私たちの「やさしさ」は「残酷さ」としばしば紙一重である。*5
医療費や介護費など社会保障費は、今後毎年のように増えていくことが必至である。2025年には団塊世代が後期高齢者となり、現役世代の負担は大幅に増大する。また、医療・介護従事者の供給が高まるニーズに対応しきれなくなり、木村議員が述べたような「介助する側もされる側も疲弊する」状況が、改善するどころかさらに深刻化してしまう可能性すらある。
個人に実感を伴うようなかたちで、医療・介護の経済的・人員的負担がいまよりずっと重くのしかかる時代がまもなくやってくる。そのとき、「もうこれ以上、生産性のない事業と生産性のない対象に現役世代がお金も労力も吸い取られるのはおかしい」という論調が広く支持されるようになるかもしれない。
植松被告の思想や主張を「絶対に受け入れられないものである」と明言するのであれば、直接・間接を問わず、被告の主張を是認する──すなわち「能力のない者を養う余裕などこの社会にはない」といった言説に説得力を与えるような──事象や言説を見抜き、批判するよう誰もが努めなければならないだろう。
そうでなければ、植松被告が抱いた憎悪に本当の意味で打ち勝つことはできない。
*1 神奈川新聞(カナロコ)「『遺族に深くおわび』植松被告、本紙記者と接見」2017年3月3日、https://www.kanaloco.jp/article/entry-9259.html
*2 朝日新聞デジタル「遺族の問いに男はうめくだけだった やまゆり園事件1年」2017年7月23日、https://digital.asahi.com/articles/ASK7H3W11K7HULOB009.html
*3 ハフポスト「植松被告がキレた理由 『日本の借金』を、なぜあれほど憂えるのか」雨宮処凛、2018年10月22日、https://www.huffingtonpost.jp/entry/uematsu-sagamihara-japan_jp_5c5a94bee4b074bfeb167c82
*4 現代ビジネス「ひきこもり者『親の遺体放置』多発の裏にある『小さなノーサンキュー』御田寺圭、2019年9月19日、https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67227
*5 現代ビジネス「回復した京アニ放火容疑者は、なぜ『優しさ』についてまず語ったのか」御田寺圭、2019年11月18日、https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68498
*6 内閣官房・内閣府・財務省・厚生労働省資料「2040年を見据えた社会保障の将来見通し(議論の素材)概要」2018年5月21日、https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12600000-Seisakutoukatsukan/0000207398.pdf
「土地汚れる」障害者グループホーム、理解なき反対運動
引用 2020年1月9日 朝日
家の近所に障害者のグループホームができる――。それを知った住民らが反発し、建設をめぐって住民と事業者が対立する「施設コンフリクト」が各地で起きている。どうして住民は反対するのか。乗り越えられるのか。
「なぜこんな住宅地の中心に建てるのか」
東京都町田市で2019年2月、知的障害や精神障害のある人が暮らすグループホーム(GH)の建設が始まると、激しい反対運動が起きた。
GHの建設を計画した運営会社「セレリアンス」(東京都新宿区)は、住民からの希望で説明会を何度も開いた。だが、村松良記・事業推進部長は「聞くに堪えない言葉ばかりで、理解を得るのは無理だと思った」と振り返る。粛々と建設を進める予定だという。「犯罪者を住ませるのか」。住民が説明会で放った一言が頭に残る。
やまゆり園事件が問うたもの
参議院議員木村英子
「幼いときから障がい者と健常者が分けられずに育つ環境が整っていたら、支え合うコミュニケーションが生まれ、差別や偏見を生み出さない社会が作られると思います。
そして、「障がい者は、生きていても意味がない」という考え方をもつ人はいなくなるのではないでしょうか。
障がい者が生きやすい社会は、誰もが生きやすい社会になると信じて、これからも取り組んでいきます。」
幼いときから障がい者と健常者が分けられずに育つ環境
引用 現代ビジネス 20200123
「皆さまに深くおわびします」
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〈相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で平成28年、入所者19人が刺殺され、職員を含む26人が重軽傷を負った事件で、殺人罪などに問われた元職員、植松聖(さとし)被告(29)の裁判員裁判の初公判が8日、横浜地裁(青沼潔裁判長)で開かれた。植松被告は起訴内容について「(間違い)ありません」と述べた。弁護側は、事件当時、精神障害があったと無罪を主張した。その後、植松被告が暴れ、裁判は休廷になった〉(産経新聞『【相模原45人殺傷初公判】植松被告、起訴内容認めるも暴れ休廷 小声で「深くおわびいたします」』2019年1月8日)
年明けから、相模原45人殺傷事件の裁判が進んでいる。初公判では、植松被告は起訴事実を認めながらも、手を口に突っ込んで暴れるなどして退廷させられた。
暴れて退廷させられる直前、被告は「皆さまに深くおわびします」と謝罪を述べたという。しかし、果たしてその「皆さま」とは、いったいだれを念頭において述べられたのだろうか。
それを知る手掛かりがある。植松被告が「謝罪」するのはこれがはじめてではない。
2017年には、神奈川新聞の記者が植松被告に接見した際、被告は「このたびは私の考えと判断で、遺族の皆さまを悲しみと怒りで傷つけてしまったことを、心から深くおわび申し上げます」と述べた*1
ほか、朝日新聞の仲介で遺族と面会し、その場で謝罪もしている。*2
これらは遺族、つまり健常者に向けられた謝罪の弁であり、自らが殺めた人々に対するものではない。あくまで健常者の心を傷つけたことへの謝罪なのである。「障碍者はいなくなるべきだ」とする植松被告自身の思想は、いまもなお一貫していると考えられる。
私たちは、植松聖という男の凶行を「私たちとはまったく相容れない、異質な者が狂気に駆り立てられて起こした事件である」と捉えるべきなのだろうか。
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れいわ・木村参院議員の指摘
引用
職員の言うことを聞かなければ、常にお仕置きが待っていました。
施設では、私に与えられた空間はベッド一つだけ。決められた時間に、食事、トイレ、入浴をし、外出することも許されず、好きなものも食べられず、会いたい人に会えない、そんな自由のない権利が奪われている生活が障がい者にとってあたりまえの現実の中で、施設生活が長ければ長いほど、絶望に打ちひしがれ、心が死んでしまうほど劣悪な環境でした。
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れいわ・木村参院議員の指摘
自身も脳性麻痺による重度身体障碍者である、れいわ新選組の木村英子参院議員は、植松被告の初公判を受けて、ブログで文書を発表している。できれば全文を読んでいただきたいが、一部を抜粋して引用する。
〈このような残虐な事件がいつか起こると私は思っていました。なぜなら、私の家族は障がいをもった私をどうやって育てたらいいかわからず、施設にあずけ、幼い私は社会とは切り離された世界の中で虐待が横行する日常を余儀なくされていたからです。(中略)
そんな環境で、職員は少ない人数で何人もの障がい者の介助をベルトコンベアーのように時間内にこなし、過重労働を強いられます。そのような環境の中で、障がい者は、絶望し、希望を失い、顔つきも変わっていく。その障がい者を介助をしている職員自体も希望を失い、人間性を失っていき、目の前にいる障がい者を、人として見なくなり、虐待の連鎖を繰り返してしまう構造になっていきます。(中略)
このような環境では、何もできないで人間として生きている価値があるんだろうかと思ってしまう植松被告のような職員が出てきてもおかしくないと思います〉(参議院議員木村英子オフィシャルサイト『相模原事件初公判にあたり』2020年1月8日)
乏しいマンパワーで何人もの障碍者を介助しなければならない現場では、介護する側もされる側も人間性を失っていく、と木村議員は指摘する。
植松被告がやまゆり園で働き始めた当初は「明るく朗らかで、丁寧な好青年」として見られていたことが証言で明らかになっている。しかし被告も障碍者施設で働いているうちに変わっていき、事件の引き金となるような優生的思想を抱くようになっていったのかもしれない。
植松が例外なのではない──そう木村議員が当事者として語るように、障碍者の介護の現場を取り巻く環境的要因を考慮せず、「異常者がやったことだ」と事件をまったく切断処理してしまってもよいとは思えない。
しかしながら、その一方で、障碍者福祉の現場がどのようになっているのかを直接知る人は少ない。多くの「健常者」にとって、想像のおよばない世界であるように思われるし、あるいは実際に無縁な実情がある。
植松の主張は、社会と地続きである
植松被告が、自らの思想の「根拠」として再三述べていたのが、「社会的リソースの余裕のなさ」であった。*3
日本の景気が後退し、財政が悪化するなかで、これ以上「無駄飯食い」のための社会保障費を捻出する余裕はない――というものだ。 世間の人びとは、植松被告の差別的、選民的な思想に対して異議を申し立てた。健常者であろうと、障碍者であろうと、ひとりの人間として人権があり、平等であると。意思疎通ができなければ人間ではないとか、生産性がなければ人間ではないなどといった主張に対して、真っ向から反対の声を挙げたのだ。
だが社会は年々、そのような「障碍者差別」に反対する言葉とは裏腹に、「能力で劣る健常者」に対しても冷酷な視線を注ぐようになってはいないだろうか。
たとえば、なにか具体的な病気や障碍をもっているわけではなくとも、ただ要領が悪かったり、仕事ができなかったり、コミュニケーション能力が低かったりする人たちを、「生産性が低い」「努力が足りない」などと言って遠ざけ、冷遇する現実がある。しかしそれを、社会は人権侵害だとは考えない。「機会の平等」や「自由競争の結果」であるとみなされる。
社会によりどころをなくしてしまった人を、最終的には家庭に引き取らせて「なかったことにする」ような動きに対してあまり異議が出ないのも、いまや皆がうっすらと「この社会は余裕がないのだから(社会性、生産性がない人まで、世間が面倒をみて包摂することはできない)」という前提を暗黙裡に共有しているからでもあるだろう。*4
私たちは、大なり小なり、「私たちと同質的にふるまえない者」を排除することによって、この「生産的で快適な社会」を築いてきた。植松の思想をどれほど強く否定したとしても、しかし私たちの社会の根本には、「人間を、能力の高低や他者にもたらす便益の大小で選別するのは仕方がない」という考え方がインストールされている。植松の言説は、私たちの社会と断絶するものではなく地続きであり、その極北、最果てに待ち受けているものだ。
「植松思想」に打ち克つために
〈家の近所に障害者のグループホームができる──。それを知った住民らが反発し、建設をめぐって住民と事業者が対立する「施設コンフリクト」が各地で起きている。どうして住民は反対するのか。乗り越えられるのか。(中略)
GHの建設を計画した運営会社「セレリアンス」(東京都新宿区)は、住民からの希望で説明会を何度も開いた。だが、村松良記・事業推進部長は「聞くに堪えない言葉ばかりで、理解を得るのは無理だと思った」と振り返る。粛々と建設を進める予定だという。「犯罪者を住ませるのか」。住民が説明会で放った一言が頭に残る〉(朝日新聞デジタル『「土地汚れる」障害者グループホーム、理解なき反対運動』2020年1月9日)
耳を疑うような差別的言説を言い放つ人間が、必ずしも悪意の塊であるとはかぎらない。そこには当人なりの危機意識、むしろ「善意」があることさえ珍しくない。
障碍者施設の建設に反対する住人は、純然たる憎悪から排除を申し立てているわけではなく、自分の身内や近隣住民の生活を守りたいという「やさしさ」から、「私たちと同質的にふるまえない者」を排除しようとすることもある。私たちの「やさしさ」は「残酷さ」としばしば紙一重である。*5
医療費や介護費など社会保障費は、今後毎年のように増えていくことが必至である。2025年には団塊世代が後期高齢者となり、現役世代の負担は大幅に増大する。また、医療・介護従事者の供給が高まるニーズに対応しきれなくなり、木村議員が述べたような「介助する側もされる側も疲弊する」状況が、改善するどころかさらに深刻化してしまう可能性すらある。
個人に実感を伴うようなかたちで、医療・介護の経済的・人員的負担がいまよりずっと重くのしかかる時代がまもなくやってくる。そのとき、「もうこれ以上、生産性のない事業と生産性のない対象に現役世代がお金も労力も吸い取られるのはおかしい」という論調が広く支持されるようになるかもしれない。
植松被告の思想や主張を「絶対に受け入れられないものである」と明言するのであれば、直接・間接を問わず、被告の主張を是認する──すなわち「能力のない者を養う余裕などこの社会にはない」といった言説に説得力を与えるような──事象や言説を見抜き、批判するよう誰もが努めなければならないだろう。
そうでなければ、植松被告が抱いた憎悪に本当の意味で打ち勝つことはできない。
*1 神奈川新聞(カナロコ)「『遺族に深くおわび』植松被告、本紙記者と接見」2017年3月3日、https://www.kanaloco.jp/article/entry-9259.html
*2 朝日新聞デジタル「遺族の問いに男はうめくだけだった やまゆり園事件1年」2017年7月23日、https://digital.asahi.com/articles/ASK7H3W11K7HULOB009.html
*3 ハフポスト「植松被告がキレた理由 『日本の借金』を、なぜあれほど憂えるのか」雨宮処凛、2018年10月22日、https://www.huffingtonpost.jp/entry/uematsu-sagamihara-japan_jp_5c5a94bee4b074bfeb167c82
*4 現代ビジネス「ひきこもり者『親の遺体放置』多発の裏にある『小さなノーサンキュー』御田寺圭、2019年9月19日、https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67227
*5 現代ビジネス「回復した京アニ放火容疑者は、なぜ『優しさ』についてまず語ったのか」御田寺圭、2019年11月18日、https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68498
*6 内閣官房・内閣府・財務省・厚生労働省資料「2040年を見据えた社会保障の将来見通し(議論の素材)概要」2018年5月21日、https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12600000-Seisakutoukatsukan/0000207398.pdf
「土地汚れる」障害者グループホーム、理解なき反対運動
引用 2020年1月9日 朝日
家の近所に障害者のグループホームができる――。それを知った住民らが反発し、建設をめぐって住民と事業者が対立する「施設コンフリクト」が各地で起きている。どうして住民は反対するのか。乗り越えられるのか。
「なぜこんな住宅地の中心に建てるのか」
東京都町田市で2019年2月、知的障害や精神障害のある人が暮らすグループホーム(GH)の建設が始まると、激しい反対運動が起きた。
GHの建設を計画した運営会社「セレリアンス」(東京都新宿区)は、住民からの希望で説明会を何度も開いた。だが、村松良記・事業推進部長は「聞くに堪えない言葉ばかりで、理解を得るのは無理だと思った」と振り返る。粛々と建設を進める予定だという。「犯罪者を住ませるのか」。住民が説明会で放った一言が頭に残る。
やまゆり園事件が問うたもの
参議院議員木村英子
「幼いときから障がい者と健常者が分けられずに育つ環境が整っていたら、支え合うコミュニケーションが生まれ、差別や偏見を生み出さない社会が作られると思います。
そして、「障がい者は、生きていても意味がない」という考え方をもつ人はいなくなるのではないでしょうか。
障がい者が生きやすい社会は、誰もが生きやすい社会になると信じて、これからも取り組んでいきます。」
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